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2024年3月10日 礼拝メッセージ
『真(まこと)の祝福』  マルコの福音書 10:23~27 

 前回の復習
 主イエスは言われました。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしいのです。(マルコ10:25)」と。弟子たちは驚き、言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう(マルコ10:26)」と。弟子たちの問いは、弟子たちがまだ、人間の努力によって救いがある、自分の力で神の国に入ろうとしているからです。

 ですから主イエスは、「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)」と言われたのです。

 救われるということ、神の国に入るのは、人間の努力や功績によるのではない。人間の力や努力では、すべてを捨てることなどできないし、神に従うことなどできない。もしできたとしたら、それはすべて、神がそうさせてくださったからだ。神の国に入ること、すなわち、救われるということは、すべて神が私たちにプレゼントして下さったのであり、賜物(エペソ2:8)なのだ。人間は自分を救うことなどできないし、富んでいることも貧しいことも、本質的には関係がない、救って下さるお方は神の御子イエスだけだ、と言っておられるのです。

 しかし、相変わらず、主イエスが言われたことを理解しないペテロは、主イエスが、一人の金持ちを見つめ、いつくしんで言われた「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。(マルコ10:21)」と言われたことに反応し、言いました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」と。福音記者マタイは、そのことばの後、続いて「それで、私たちは何がいただけるでしょうか。(マタイ19:27)」を記しています。この言葉によって、ペテロをはじめとする弟子たちが、何も分かっていないことが露呈しています。彼らの心の中は、自分の努力の誇り、自分への執着がありました。と言っても、私はペテロに共感を覚えます。そして彼らは素直です。しかし明らかに、ペテロは彼自身の値打ちと、彼自身への報酬を見積もっていました。

 前回、学んだように、「捨てる」ということも、自分の努力によってできるのではなく、神がそのように導いて下さるからです。神が助けて下さることによるのです。そしてペテロは、「私たちはすべてを捨てて」と、自分がこんなに努力しているということを強く意識して言っています。しかし、私たちは経験的に知っています。無理に捨てたものは、まだ捨てていないものよりも、より強く、その人の心を支配するのです。神の御前に「きよい」「正しい」と誇っているとき、実は、神から最も遠いところにいるのです。主イエスが最も嫌われたパリサイ人になるのです。それなら、捨てられない自分に悩み苦しみ悲しむ人の方が、まだましなのです。その人は心を貧しくして、神の御前にへりくだることができるからです。「神様、罪人の私をあわれんでください。(ルカ18:13)」と祈った取税人のように。

 また主イエスは、ペテロの「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」に対して、「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑(財産)を捨てた者は、今この世で迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑(財産)を百倍受け、来たるべきべき世で永遠のいのちを受けます。」と言われました。※(「妻」が除外されているのは、「『それゆえ、男は父と母と離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(マルコ10:7)』のです。」からであり、ペテロは妻を連れている(第一コリント9:5)からであろう。)この主イエスのみことばも、一人の金持ちに言われたことと同じように、単純に、肉親、財産を捨てることが「救い」につながると、勘違いしてはなりません。

 そして主イエスは、ペテロに対して、パリサイ人に対するような態度(参照;マルコ10:5)ではなく、やさしく教え諭すような口調で、「捨てる」ことの祝福を約束して下さっています。と言うのは、先に、ペテロの言動は素直で共感できると言いましたが、人間(罪人)の弱さをもろに表しているペテロに、主イエスは苦笑いをしながら、愛をもって見つめていて下さっているように思えます。何故なら、主イエスは、ペテロの「捨てた宣言(マルコ10:28)」「報酬の求め(マタイ19:27)」に対して、「祝福を約束しておられる」からです。ですから、私たちが神の祝福を求めることを、主イエスは否定しておられないのです。そして、「無私の愛」など、人間(罪人)には不可能なことであり、それができるのは、主イエス・キリストだけです。

 私たちキリスト者は、「私たちは、御利益宗教を信じていない。」と言います。しかし、それは多くの人々が、この世の富とか健康とか家内安全とかを、そのことのみを追い求めることではないということは確かですが、それでもそのこと自体が決して悪いことではありません。しかし、私たちキリスト者は最も大きな利益を受けることが約束されているので、主イエス・キリストに従うことができるのです。死から、永遠のいのちを受けるという素晴らしい特権が与えられるからです。否、すでに、その素晴らしい恵みの中に生かされているのです。

 と言うのは、その“捨て方”に鍵があるのです。今まで、しつこいくらいに、人間(罪人)は、真の意味で、自分を捨てることなどできない、すべてそうさせて下さるのは、神の働き、助けによると強調してきました。そのことは、私たちキリスト者が決して忘れてはならないことです。それは、“捨てる”ということが、今まで、否定的にとられやすいので、強調してきたのです。

実は、主イエスが言っておられる“捨てる”ということは、肯定的な“捨てる”ということなのです。永遠のいのちを与えて下さる!私たちの罪を贖うために、神であられるのに、人としてお生まれになり、罪がないのに、罪ある者とされ、私たちの身代わりとして、神のさばきを受けて、私たちを無罪放免にして下さった、無私の愛のお方、その主イエス・キリストに、喜びのあまり従うので、それ以外のものは、何も目に入らない、何もいらない、という思いで一杯になって、“捨てる”のではなく、人間の欲望としての必要がなくなるからです。この主イエス・キリストのために。この福音のために。

 そして、具体的に、現実に、見えるかたちで、私たちキリスト者は、多くの恵みを受けているのです。そのことの一つは、それは、私たちキリスト者が、親、兄弟、財産を捨てた時、それが無くなるのではなく、失うのではなく、かえって、それより百倍の恵みを受けると、主イエスが言っておられることです。まず、私たちの目に前に、明らかに見えることは、私たちには神の家族が与えられていることです。

 教会では、キリスト者同士を兄弟姉妹と呼びます。キリスト者ではない人は、奇異に感じられるかも知れません。教会はみな血縁関係の人ばかりが集まっているのか?と。

 そうです。私たちキリスト者は、実に多くの家族を得ているのです。その家族は日本だけではありません。世界中のあらゆるところに、まだ会ったこともない、見たこともない兄弟姉妹との大家族が存在しているのです。そして、その会ったこともない、見たこともない兄弟姉妹が、日本の救霊のために、日本の家族のために、祈って下さっている、私たちの家族が多く存在しているのです。その証拠が、日本の救霊のために来日している宣教師の存在です。その宣教師たちを、献げものによって送り出し、祈り支えている、遠い外国の兄弟姉妹、私たちの家族が存在しているのです。そして、この逗子福音教会も、センド宣教団の宣教師によって生まれた神の家族であることを忘れてはなりません。そして今は、日本からも多くの日本人宣教師が新しい兄弟姉妹を獲得するために世界に送り出されています。私たちは、その宣教師たちのために祈り支えているでしょうか?

 そして主イエスは、わたしのために、福音のために生きるなら、迫害も受けると言っておられます。それは、私たちもキリストの苦しみに与るということを意味しています。このことは多くの兄弟姉妹方が経験しておられることでしょう。偶像に満ち溢れる日本において、未信者の家族及び社会から、多くの誤解を受け、苦しみや悲しみを味わうことがあります。しかし私たちは、その中で、キリストにある忍耐を学びます。その苦しみによって、キリストの愛がどれほどかを知ることができます。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すこともせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。(第一ペテロ2:23~24)」真に、主イエス・キリストの十字架の愛を知ることができます。

 そして日本のキリスト教歴史において、多くの迫害を受けながらも、その信仰を守り続けた先輩のキリスト者、神の家族の兄弟姉妹によって、今の私たちが存在していることも忘れてはなりません。

 私たちは、苦しみや悲しみにある時、何故、こんなに苦しまなければならないのか、悲しまなければならないかのかと、いつもそのことだけを見つめてしまいます。しかしその時、あなたより先に立って、あなたのために苦しめられた、主イエス・キリストの十字架を見上げることを忘れてはなりません。(参照;ヘブル12:2~3)

 主イエスのために、主イエス・キリストの故に、この素晴らしい恵みを受けていることの故に、今、この苦しみや、悲しみが与えられているということを知ることができるからです。パウロは宣べています。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほどの重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(第二コリント4:17)」と。さらにパウロは続けて宣べています。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(第二コリント4:18)」と。

 私たちキリスト者は、今、目の前にある苦しみや悲しみ、また、楽しみに心を奪われるのではなく、永遠を見なければなりません。そして、目に見えるものを差し出すことができないで、どうして目に見えないものに心を差し出すことができるでしょうか?

 私たちキリスト者が“捨てる”という行為は、私たちキリスト者の心の表れです。私たちキリスト者の信仰の表れです。そしてそのことは、私たちを限りなく愛して下さる、主イエス・キリストへの喜びの表現なのです。主イエス・キリストに従うことは、真の祝福の道を歩むことなのです。

 そしてさらに、主イエスは弟子たちに警告しておられます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」と。そのみことばは、あくまでも、徹底的に、神の救いは人間的努力によるのではないことをダメ押ししているかのようです。それほど、私たちは、自己満足と傲慢になりやすい罪人なのです。神の救いは、人間の評価や基準では与えられません。神の祝福とは、はかりがたい大いなる恵みなのです。この素晴らしい恵みの中で、私たちキリスト者は、今、生きているのです。

 主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちキリスト者は、永遠のいのちをいただき、天の御国の住人とされているのです。

 あなたは、救われた者として、主イエス・キリストによって、肯定的に生きているでしょうか?私たちキリスト者は、真の祝福の道を歩むように召されているのです。